それぞれの道
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告白

月ライン

 今まで大きな故障を起こしたことの無かった尾崎にとって、こんなに長く
テニスから離れたのは初めてだった。
 入院中に麗香と親しく話せたのは嬉しかったが、こうしてグリップを握ると、
それとはまた違った喜びが、魂の奥底からふつふつと湧いてくるような気が
する。
(ああ、俺はテニスが好きなんだなあ)
その喜びを噛みしめながら、ためしにラケットを振ってみると、やはり右腕の
力がかなり落ちているのがわかる。
入念にストレッチをし、フォームの確認を行いながら素振りをしてみるが、
幸い身体のどこにも痛みはないようだ。
こうなると尾崎は夢中で練習メニューをこなしていった。

 「あまり急激に練習しない方がよろしいのでは? 傷に障りますわよ」
麗香がタオルと飲み物を運んできた。
「あー、いいですねえ。テニスができるって、本当にいい!」
「肉離れで入院していた時、あたくしもテニスがしたくてうずうずしていましたわ。
あの時、尾崎さんは病院に駆けつけてくださいましたわね」
「覚えていますよ。あの時はお蝶さまの状況を知らなかった自分に腹が立っ
て、イライラしながら病院へ向かったのに、お蝶さまの顔を見たら、なんだか
今度は情けなくなっちゃって」
 尾崎は汗をぬぐって、スポーツドリンクを美味そうに飲み、うーんと
伸びをする。
「あたくしの強さが悲しいっておっしゃいましたわね」
少し懐かしそうに、その時の尾崎の顔を思い出した麗香は「あたくしは強くは
ありませんわ」と付け加えた。
「何をおっしゃるんですか。その精神力、気迫、理想、プライド。どれを取っても
お強いですよ」
いたずらっ子のように麗香の瞳を覗きこんで尾崎は笑っている。麗香は笑え
なかった。
「ええ、あたくしも以前は自分を強い人間だと思っていました。でも、今は…」
「?」怪訝そうな表情で、尾崎は麗香を見た。
「…強いふりをしていただけですわ…」
麗香はため息混じりに日陰のテーブルへ移動し、イスに腰掛けると尾崎にも
座るようにすすめた。
「自分が弱い人間だと知ってしまったのは父から縁談があると聞かされて
からです」
「えっ!?」
尾崎は青ざめて、一気に奈落へ突き落とされたようなショックを受けた。
麗香に縁談が来ている。そうだ、なぜ考えもしなかったのか。
自分も麗香も、二十歳を過ぎている。ましてや女性で、竜崎コンツェルンの
一人娘であれば、早々に縁談があって当たり前だといえるだろう。それも、
竜崎家にふさわしい、良家との縁談に違いないではないか。
 それで、その縁談がどうなったのか、麗香がどんなふうに結婚を考えている
のか、とても尾崎には聞くことが出来ない。喉がからからに渇いて、舌さえも
干からびて上あごにくっついてしまいそうだ。
 「尾崎さん? どうかなさいまして?」
「あ、あぁ。いや、なんでもありません」
もう一度スポーツドリンクを仰ぐように飲んだ尾崎だったが「大丈夫なはずが
ないじゃないか」と内心、自分で自分を毒づいていた。
 「将来に関わる大切な問題だから真剣に考えて返事をするようにと父から
言われて、あたくし、初めて自分の将来や結婚について考えましたの。お恥
ずかしい話ですが、今までテニスばかりに夢中で、その先のことなど思いも
よらなかったのですわ」
 尾崎は自分の頭を殴りつけたいほどバカだと思っていた。入院中、麗香と
たくさん話をすることができて有頂天になっていた。ただ見守っているだけで
いいと、それもまた愛だと思っていたが、そうしている間に麗香は見知らぬ
男のもとに嫁いでしまうかもしれないのだ。
 ≪分不相応な恋≫
父親の言った言葉が渦を巻いて襲い掛かってくる。
わかっていた、わかっていた!
そんなことはずっと前から十分わかっていた――。
だが――
「以前桂コーチに言われたことがありますの。女性が道を極めるにはすぐ
れた男性から時をかけ、大切に育てられる必要があり、すぐれた男性の先
導が必要だと。あたくしは、ただ父のおかげで強くいられただけだったの
です。
父の庇護無くしてのあたくし個人は弱い人間ですわ。」
 そんな縁談断ってしまえと叫べたらどんなに楽だろう。いっそこの想いを
口に出して、有無を言わさず抱きしめることができたら。いや、それからどう
する? お蝶さまの気持ちを無視してそんなことができるか? そしてそれ
からどうするつもりだ。
 尾崎の心がキリキリと悲鳴をあげている。けれどそんなことにまったく気が
付かないように麗香は落ち着いて言葉を続けた。
「真剣に考えて、縁談はお断りしましたの。」
「えっ! それは…なぜ…?」
尾崎の緊張の糸が突然ぷっつりと切れ、と同時に、何故だという強い疑問が
広がる。
「その方は三つの条件を満たしていなかったからですわ。」
「『三つの条件』とはなんですか? それは理事が持ってこられた好条件の
縁談だったのでしょう?」
 そんなことを聞いてどうなるのだと思いながらも尾崎は聞かずにはいられ
なかった。第一、麗香の結婚の条件とはどんなものなのか皆目見当も
つかない。
「そうですわね。お会いしたことのある方でしたけれど、特にその縁談に
問題があったわけではありません」
 麗香はまっすぐに尾崎を見た。
その眼差しに射すくめられたように尾崎は動けなかった。

 「みっつ…ですか?」
「ええ。“三つ”です。一つめは…」
麗香は軽く息を吸い込んで
「竜崎コンツェルンとは関係なく、あたくし個人を愛してくださる方であること。
一生を連れ添うのに財産は関係ありませんわよね」
「二つめは、生涯共に歩んでいく方はあたくしと同じようにテニスを愛して
くださる方であること。そうでなければあたくしを理解することは出来ないと
お思いになりませんか?」と言った。
 もともと頭脳明晰な麗香の淡々とした説明に尾崎は舌を巻いた。パニックに
なっていた自分が恥かしかった。尾崎はこの二つの条件だけを聞いた限りで
は自分にも可能性があると思い始めていた。あと一つ、それもうまくクリア
できていれば、告白してしまおう。こんなに心臓に悪い思いをするくらいなら、
振られたって構わない。
 「みっつめは?」
尾崎は息を詰めて、答えを待った。
「それは…あたくしの全てを受け入れて、生涯を通して支えてくださる覚悟の
ある方でなければということです。きれいごとではなく、真実のあたくしを知って
いただきたいのですわ。逆にあたくしも、その方の全てを受け入れる覚悟が
必要となりますわね」
 麗香は少し言いよどみ、覚悟を決めたというふうに話を続けた。
「――あなたが出血されているのを見て、あたくし自分でも驚くくらい取り乱し
ました。不吉なことをたくさん考えてしまいました。どうしてあんな風に取り乱し
てしまったのか落ち着いて考えてみましたの。そして、気がついたのですわ」
 風がそよいで麗香の髪を揺らす。木漏れ日を受けて透き通るような白い
肌がまぶしい。
「尾崎さん、あなたはいつもあたくしを支えていて下さったのですわ。
あたくしがあんなに動揺したのは、あなたを失うことが怖かったからです。
もしあなたに何かあったらと心臓が止まるくらい心細かったのです。
…あたくしは――、あなたに一生支えていただきたいのです。」
 麗香の瞳に涙が満ち、すらりとした白い指が小刻みに震えている。何か
もっと言いたげに、小首をかしげて――。けれども麗香は、ただじっと尾崎を
見詰めたままだ。
尾崎は恐々と手を差し伸べた。
「こんな俺で…いいと――?」
心臓が早鐘のように鳴っている。身体中の血液が逆流しているようだ。
麗香は、はにかんだように微笑みながら
「あなたでなければ嫌なのです」と最上の優しさをこめ、微笑んで言った。
この美しいひと言をどうやって藤堂に話したらいいだろう。まばゆいほどの
この人が自分でなければと言ってくれている。
 尾崎の手が麗香を引き寄せても、麗香は抵抗しなかった。尾崎はその腕の
中に、確かに麗香を抱きしめている。信じられない。
だが夢にさえ見た竜崎麗香、そのひとが自分の腕の中で小鳥のように震えて
いるのを、尾崎は確かに身体中で感じている。麗香の震えと体温が愛しさを
つのらせる。これだけのことを言うのに、どんなに勇気が必要だっただろう。
 尾崎は、深く息を吸い込んで自分を落ち着かせると、麗香に答えて言った。
「俺も、あなたでなければ愛せない」

 初めて、ふたりの唇が触れ合った。

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