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麗香が加賀大学へやってきたのは、緑川蘭子から呼び出されたからだ。 蘭子は麗香にとって、テニスの上ではもっとも強力な好敵手であったが、テ ニスを振興するという関係においては、もっともよき理解者であると言える。 キャンパス中央の芝生の広場に、大学のシンボルツリーである欅の木が あり、その木を取り囲むようにいくつかのベンチが置かれている。 空いているベンチに座って間もなく、「お待たせ」と背後から蘭子の声がした。 コーヒーとサンドイッチの乗ったトレイをベンチにことりと置いた蘭子を見て、 麗香は驚いた。 ボリュームのある黒髪を束ね上げ、蘭子が白衣を身に着けていたからだ。 蘭子が加賀大学に進学したことは知っていたが、学部まで聞いていなかった ことに麗香は気が付いた。 蘭子は麗香のとなりに腰掛けると、コーヒーをすすめ、自分もゆっくりと飲む。 「キャンパスのカフェでお会いしようと思ったんだけど、あそこ、消毒薬臭い のよ。私から呼び出しておきながら、こんな外でごめんなさいね」 「いいえ、構わないわ。お久しぶりね。」 蘭子が充実した学生生活を送っていることは、その明るい表情から伺える。 「実は岡さんから国際電話がかかってきたの。オーストラリアのレイノルズ 家からよ。」 そういえば、ひろみはレイノルズ家に滞在して、トレーニングと調整をしてい るはずである。 「竜崎さんが心配だから、会って様子を見て欲しいって言うのよ。尾崎さん の怪我のことも聞いたわ。『どうして私がそんなおせっかいを』って思ったん だけど、あんまり岡さんが一生懸命だったから、連絡したってわけ。彼、もう 退院したんでしょう? たいした怪我でなくてよかったわね」 わざわざ蘭子にオーストラリアから電話をかけるとは、ひろみらしいと麗香は 思う。その心遣いは嬉しく、また、恥ずかしくもあった。 「そう、ひろみから電話があったなんて――ひろみにはみっともないところを 見せてしまったわ…」 「あらぁ、人間的な竜崎さんも魅力的だと思うわよ。いつも立派な竜崎さんで いる必要なんかないじゃないの。岡さんって、本当に貴女のことを慕っている のねぇ」でも、あなたが思ったより元気そうで安心したわ。 いつものように歯切れの良い口調の蘭子は、 「お昼をまだ食べていないので失礼するわね」とサンドイッチをつまんだ。 麗香は改めて、蘭子の白衣を見やって「医学部なの?」と訊いてみる。 「スポーツ医学をやっているのよ。似合わない?」 蘭子は宗方仁の異母兄弟である。仁は膝の故障で再起不能となり、蘭子と ダブルスを組んだ樋口は肘に故障を持っていた。蘭子がスポーツ医学を学ぶ と言うのは当然かもしれないと麗香は思う。 「スポーツ選手に怪我は付き物だけど、すばやく適切な処置と最適なリハ ビリを行えば、再起不能といった哀しい想いをする選手は減ると思うのよ」 「そうだったの。よくお似合いよ。宗方コーチも喜ばれると思うわ。」 自分の進路をはっきりと決めた蘭子を、麗香はうらやましく思った。 「あなたは? 卒業後どうするか決めた? まさか、竜崎コンツェルンを すんなり継いじゃうわけじゃないでしょう?」 「ええ、まあ…」 麗香は自分の不安を言い当てられたようで言葉に詰まり、「緑川さん、明るく なったわね」とだけ言った。 蘭子はうふふと笑いながら、 「正直言って、仁の死を受け止めるには時間がかかったわ。でも、くよくよ していても仁はきっと喜ばないし、仁と私の共通であるテニスを大切にして いこうと思えるようになったのよ」 と、さらりと言う。 「もちろんテニスも辞めるつもりはないのよ。私には仁と同じ血が半分流れ ているから、できない筈がないわ。いいえ、必ずやり遂げてみせる」 宗方仁。なんという大きな存在だろう。テニスを愛し、テニスをする者を 愛し、テニスの普及を願って止まなかった人。周囲の人間に大きな影響を 与えて、わずか27歳で逝ってしまった。 仁が死んだとき、ひろみと同じく、その死を看取った蘭子も、激しく苦しんだ ことを麗香は知っている。その死を乗り越えて、蘭子は仁の願った世界に 生きようとしている。 麗香は目の前の霞が晴れて来たような気がした。 自分の中にもまた、確かに息づいている宗方仁を感じたからだ。 「岡さんに電話してあげなさいよ。今期、彼女の戦績が悪かったら、貴女の せいかもしれないわよ。もっとも、世界相手に戦っているんだから、そんな ことで戦績を落しているようだったら勝ち残って行けないわよね」 蘭子は「時間が無くてごめんなさい。またゆっくり会いましょうね」と、 手を振って去っていった。 「この縁談はお断りしてください」 帰宅してすぐに総一郎の部屋を訪れた麗香の言葉に迷いは無かった。 葉巻をくゆらせながら、窓の外を見ていた総一郎の横に麗香はゆっくりと 立ち、共に窓の外をながめる。 「わかった。では、断ることにしよう。進路は決まったのだね?」 総一郎は縁談を告げた時の暗く、険しい顔の麗香を思い出していた。それ は普段の勝気でしっかりした娘とはまるで別人のようだった。 果たして、麗香がどんな進路を選んだのか、父として多大に気になる ところであったが、 「はい。決まりました。まだ今は申し上げられませんが、お父さまにはお判り いただけると思っています」と、答える姿には潔さを感じさせる。 ならば、任せてよいではないか。 そこから見えるテニスコートではウエアに着替えた尾崎が練習の準備を 始めている。 大事に至らなくてよかったと、内心胸をなでおろし、尾崎を目で追う麗香に 声をかける。 「私はいつでもお前を信じているよ。お前は自分の人生を思うように生き なさい。何かあったときには父として力を貸そう」 「ありがとうございます。お父さま。けれどもご心配にはおよびません。 わたくしはあなたの娘ですから」 麗香は悠然と微笑んで父の部屋を後にした。 縁談を断って、麗香はようやく心が軽くなったような気がした。 それは尾崎に自分の気持ちを伝えようと決めたからかもしれない。 彼からの返事が好ましい物でなくても構いはしない。それで二人の関係が 壊れるような絆ではないはずだから。 宗方仁を心に有する者として、テニスを愛する気持ちには一遍の曇りも ない。それは、彼、尾崎も同じだろうと麗香にはわかっている。自分らしく 生きていくために、嘘偽りのない想いを知ってもらいたい。 あの事故があったからこそ尾崎の存在は確固たる物として麗香の中に 刻まれたのだ。 過去も現在も未来も信頼して余りある彼の人柄が、麗香にとっては かけがえのない支えになっていたことに衝撃を受けた。 自分の中に、いつの頃からか彼は染み入っていて、もはや切り離すことな ど考えられないほどに深く浸透していたのだから。 竜崎麗香として精一杯生きていく。険しくとも恐れはしない。 厳しく一生を生き抜いた、あの、宗方仁のやろうとしていたこと。 その意思を知る自分の役割を麗香はあらためて決意したのだ。 |
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