それぞれの道
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旅立ち

月ライン

 西高に程近い愛すべき喫茶店は、今も当時のままの姿で営業をしていた。
テニス部の練習の後、学校祭の準備の前後など、機会がある度にここに
集い、馬鹿な話もしたし、熱く語ったこともある。
 ドアベルの音が鳴って、木戸を押しながら千葉が入ってきた。
柔らかな午後の日差しが差し込む窓を背にして、尾崎が座り、その向かいに
麗香の後ろ姿がある。ふたりきりの静かなデートを邪魔する気などまるで
ない千葉だったが、まっすぐに尾崎のほうへ歩み寄った。
「おう、めずらしいな。岡さんが卒業してからは、とんとご無沙汰だったん
じゃないか?」
尾崎のちょっと皮肉った言い方をものともせず、千葉は尾崎の隣の席に
身体を滑り込ませて「コーヒーを」と注文した。
「確かに、この店に来るのは久しぶりさ。千葉ちゃんだって忙しいんだぜ。
でもまぁ、お蝶さまからの呼び出しとなれば、来ないわけにはいかない
だろう?」
尾崎にむかって、ウインクをしてみせた千葉だったが、尾崎は驚いた顔で
麗香を見ている。
「俺を呼んであるってお蝶さまに聞いていなかったのか? 俺が偶然ここに
来たと思ったの?」
 普段西高生でかまびすしいこの店も、 昼を過ぎたばかりの時間帯には客が
少ない。
あまり待たされずに運ばれてきたコーヒーをひとくち啜って千葉は言った。
「そうか。では、お蝶さまは、俺と尾崎と両方に聞かせたいことがあるんで
すね。なんだろうな。ちょっと記者魂がわくわくしますよ」
千葉と尾崎を交互に見た麗香は薄く笑みを浮かべて、口を開く。
「あたくし、アメリカへまいりますの。渡航は3日後ですわ」
それまで無言だった麗香のひと言に、千葉はあわてて尾崎の顔をうかがい
見た。
尾崎の表情にも驚きが見えるからには初耳だったに違いない。
「ちょ、ちょっと待ってください。お蝶さま。そう言ったお話は、尾崎と二人で
親密にご相談なさってから報告いただいてもよかったんじゃありませんか?」
しかし、麗香は平然としている。
「そうでしょうか。未来のジャーナリストさんとしては、全日本チャンピオンの
大学卒業後の進路について、興味がおありかと思いましたのよ」
 「そりゃあ、もちろん興味がありますよ。でも…」
「ま、いいって。第三者が居たほうが言いやすいこともあるさ。それに、
こういう話を聞いてもらうのには千葉が適任だと、俺も思う。」
 尾崎は頭の後ろに手を組んで、
「俺はイギリスへ行く」と続けた。
「え?」
 今度は千葉が麗香の顔を見たが、麗香の方は落ち着いてコーヒーを飲んで
いる。
「お蝶さまが留学するだろうくらいは想像していたよ。出発日が迫っているの
と、俺と行き先が違うのは残念だがな」
「ああ、もう! なんだよ、なんだよ。」
千葉はしばらく文句を言いたそうにしていたが、
「尾崎の留学の目的はテニスだよな」と、ようやく言った。
「ああ、もちろん勉強もするが、テニス王国イギリスの底辺を知りたい。
どんなジュニアが居て、どんなシステムでその子らを育てているのか。きっと
それは日本へ持ち帰って参考にできると思う。」
「お蝶さまは?」
「ボストンのバブソン大学で経営学を修める予定です」
「竜崎コンツェルンを継ぐため…ですか?」
今度は尾崎がたずねた。
「一概にそうとは言えませんわ。あの大学のMBAは起業家育成ランクが
高いんですの。日本のテニスを振興させるためには、経営学は欠かせないで
しょう。たとえば尾崎さんが持ち帰ったプランを実行するための受け皿と
しての企業があれば、それは実現可能となりやすいですわよね」
話をじっと聞いていた千葉は、搾り出すように言った。
「宗方さんの理想…ですか」
「何も宗方さんだけの理想じゃないさ。テニスを愛する者なら、そこへ行き
着くってだけのことじゃないか」
尾崎の顔は明るい。麗香との別れだとは全く思っていないらしい。
「くっそー! お前らって、かっこいいよ。尊敬する。俺はテニス部だったわけ
じゃないが、一緒に宗方コーチの生き様を見てきたんだ。宗方さんに代わっ
て応援するよ!
地球はそんなに広くない。現に今だって、桂コーチと岡さんはインドだし、
藤堂はオーストラリアに行っている。それに、世界各地に足がかりがあった
ほうが、俺としても助かるってもんだ」
千葉は一気にコーヒーを飲みきり、さらにお代わりを注文すると、それぞ
れの今後について詳細に知りたがった。

月ライン

 麗香は尾崎にだけ出発の予定を知らせ、見送りに来てもらいたいと
言った。
小さなスーツケースをひとつ下げて、電車で行きたいと言う麗香に付き添い、
何気ない会話を楽しみながら空港までやって来た尾崎だったが、麗香が
アメリカへ行き、自分はいずれイギリスへ行くとなれば、会えるチャンスが
更に減ることはお互いにわかっている。
 尾崎は、未練がましくなるのを恐れて「気を付けて」とだけ言い、スーツ
ケースを麗香の足元近くへ置いた。
 つっと麗香が一歩近寄って来たと思ったとたん、彼女は尾崎の首に腕を
まわし、キスをして「お見送りにはキスするものではありませんの?」と
微笑んだ。
敵わないな、まったく。尾崎は苦笑して、麗香の身体を引き寄せると、
「普通は男の方からキスするものですよ。」と抱きしめる。
腕の中でくすくす笑いながら「知りませんでしたわ。両親に教わりませんで
した」と言う麗香の、なんと愛しいこと。
今一度、尾崎のほうから唇を重ねたが、次に会えるのが何ヵ月後か、何年
後か、それまでこの柔らかな感触を覚えていたいと願う。その気持ちを見透
かすように麗香が
「望めばいつでも会えますわよね。」と言った。
そのとおり。お互い忙しく、今までも会える日より会えない日の方が多かった。
千葉の言葉を思い出す。「地球はそれほど広くは無い」
距離はそれほど障害にはならない…か――。
「尾崎さん、あなたはあたくしにとって大切な“ひとり”ですのよ」
ふわりと身を翻してスーツケースを取ると、麗香はゲートの向こうに消えて
いった。
「行ってまいります」と、にこやかに言い残して。

 尾崎もまた、麗香の髪の香りを慈しみながら、踵を返した。

moonアイコン
 
 飛行機のシートに着いて、そっと自分の唇に触れてみる。
(少し度が過ぎたかしら)
しばらく会えないという気持ちもあったが、尾崎といると心がゆるむのを
抑えられない。
胸に広がる甘やかな気持ちを押しやるように目を閉じ、これから訪れるで
あろう厳しい日々へと意識を集中させていく。
 尾崎は誰にも勝る大切なひとりとなった。
いついかなる時にもこの想いが裏切られることはないだろう。彼はそういう
男だから。
麗香の脳裏にミックスダブルスを行った日が浮かび上がる。
どれだけ月日が経っても、あの一日を決して忘れることはない。
いい一日だった。誰もが笑顔だった、あの日のあのコート。
その思い出は麗香にとって珠玉の宝だと言える。貴重な友との交わりは、
自分の決意を後押しし、目覚めさせてくれたからだ。

 私は弱くない。決してひとりではないから――。

 眼下に小さくなってゆく陸地が見える。
まだそれぞれの道の第一歩を踏み出したに過ぎない。
勝負はこれから始まるのだ。
(2004,09,15)

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