深き淵より
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 病院で、食べることを拒否すれば死ねるなんて思ったのは、子どもの
浅知恵ってやつだった。
眠っている間に栄養剤を点滴されて、僕は全然死ねなかったのだ。ただ
死にたいと願う毎日のある日、再び針生さんが病室にやって来た。
「・・・何しに来たのさ? 僕を殺してくれるの?」
冷たい僕の言葉に、針生さんは悲しそうな顔をして
「ゴメン。それは出来ない」と言う。
「じゃあ帰れよ。何も用は無いよ」
「ああ。これを置いたらすぐ帰るよ」
針生さんはドアの方を向き、「チビ、おいで」と何かを呼んだ。
「ハイ。スグニマイリマス…」機械音とともに赤いボディーの小さなロボット
が入室してくる。「真田サン、ハジメマシテ。ちびトモウシマス。ドウゾ
ヨロシク」丸っこい身体。点滅する数々のメーター。
手足は短く、足にはキャタピラが取り付けられている。
「音声認識と人工学習頭脳を積載している介護ロボットだよ。小さいが
腕が伸びるし、きみを抱き上げる力もある。相手がロボットなら、恥ずか
しいなんて思わないですむだろう? 自動セーブ機能付きだから、『チビ』
という呼びかけで起動し、長く会話がなければ勝手にスイッチが切れる。
作動していない時にも、きみの心拍数や血圧の記録は取り続けている
んだよ。エネルギーはソーラーにした。病室は明るいから問題ないし、
それが一番重くなくて、手軽に使えたからね」ゆっくりと僕の顔を見ながら、
針生さんは説明してくれたけど、僕は怒っていたんだ。
思い切り反動を付けて、上半身をバウンドさせ、針生さんの顎に頭突きを
食らわせた。無警戒だった針生さんは、大きく後ろへひっくり返り、壁に
当たると、チビの上に落ちた。
「ふざけるな! 帰れよ! こんなものはいらない! まるでダルマみたい
な変なロボットを持って来て! どうせ僕もダルマだっ!!」
「志朗くん、僕は…」頭突きの衝撃で唇を切ったのだろう。針生さんの下唇
から血が出ているのが見える。でも謝る気持ちには全然なれなかった。
「帰れ! 帰れーーーっ!」うわあああん…涙がほとばしり出て、僕は
声が枯れるまで泣いた。

 泣いて泣いて、夜ふけの真っ暗な病室で涙も鼻水も拭くこともできずに
泣き続けていた僕は、そのうち喉の渇きをガマンできなくなってきた。
こんな時間にナースコールを押しても、当直の看護師さんには迷惑だろう
な。とか、泣きすぎて顔が腫れているようだから、そんな顔を見られるのは
嫌だな。とか、考え始めて嫌になり、仕方なく小さい声で赤いダルマを
呼んでみた。
「チビ……」
「ハイ。真田サン」
すぐに反応があって、キャタピラの音とともにチビはベッド脇に寄って来る。
「水が飲みたいんだ」
「ワカリマシタ」チビの腕が伸びて、吸い口を取り上げると、僕の唇の間に
差し入れた。
くーっと飲むと、煮えくり返っていたはらわたまで 冷えて落ち着いたような
気がする。
「ありがとう」ロボットに礼を言うなんて、ちょっと変だと思ったんだけど、
水はとても美味しかったので素直にそう言った。
「ドウイタシマシテ。ホカニゴヨウハアリマセンカ?」
頭の真ん中のランプがピコピコと点灯しているのが可愛かった。
「そうだなぁ。背中なんか、掻ける?」
「背中ヲカクノデスネ? 背中ト字ヲ書ク。背中ノ絵ヲ描く。
背中ヲポリポリ掻ク。ドレニシマスカ?」
思いもよらないチビの答え方に、僕は事故以来初めて笑った。チビは
仰向けだった僕を上手に横に向かせ、背中を撫でるように掻いてくれた。
「痛クナイデスカ」「大丈夫だよ。いい気持ちだ」僕はそのまま眠って
しまったらしい。自動的にスイッチが切れたチビは、ちゃんと僕を仰向けに
戻し、シーツもかけてくれたようだ。
 その夜、S-8号の夢を見た。それはもう、遠い昔のような気がした。

moonアイコン

 「ねえ、チビ。どうして僕のことを“真田さん”なんて言うの? 針生さんは
そう呼ばないのに」僕はチビとよく話すようになった。
チビはどんな質問にも丁寧に答えてくれるので、退屈しなかったのだ。
「再生シマショウカ?」「え?」「データ検索中…発見シマシタ。再生シマス」
チビのお腹の部分から、針生さんの研究室の様子が映し出された。どう
やら針生さんは、完成したチビを磨いているようだった。
「いいか、チビ。きみの使命は重いぞ。志朗くんは将来きっと、地球を代表
する科学者になれる人材なんだ。僕はなんとしても諦めない。彼を立派な
科学者にしてみせる。だが、今は僕ではダメなんだ。だからチビ、きみが
彼の友達として支えてあげてくれ。『志朗くん』と呼ぶなよ。ずっと長く、彼と
付き合って行くんだから、子ども扱いしないで、『真田さん』と呼ぶんだ…」
針生さんは大切そうにチビに話しかけていた。
「教授は夫人のために研究を捨ててもいいと言っている。だが志朗くんは、
会いに来てくれないご両親を恨んでいるかもしれないなぁ。どうしてこんな
酷い事故が起こったんだろう――」
ぽたりと、針生さんの目から涙が落ちる。そのあと針生さんは小さく何度も
「澪さん」と姉の名を呼んでいた。

 針生さんは姉さんのことが好きだったのだろうか。それは分からない。
けれど、考えてみたら、針生さんも暇じゃないはずだ。月と地球を往復し
ながら何度もお見舞いに来てくれて、僕のためにチビを作ってくれた。
 お父さんは、お母さんが壊れ、姉さんが死に、僕がこんな身体になって
しまって、平気なわけがない。
 僕だけがつらいんじゃないんだ。僕はまだ生きている。僕はまだ学ぶこと
ができる。針生さんが思うように、僕は科学者になれるだろうか――。

 「チビ、ナースコールしてよ。僕は義肢を付けて、地球一の科学者になる。
そして、僕たち家族をこんな目にあわせた科学に復讐するんだ」
それは、新たに見つけた生きる希望だった。針生さんに八つ当たりをした
けれど、悪いのは針生さんではない。楽しい、夢を与えるはずの場所で、
こんなにも残酷な事故は起こり、家族はバラバラになってしまった。
それは、人間がちゃんと科学を制御できなかったからだ。科学と人間が
バランスよく共立できる世界が必要なんだ。だから、間違った科学と、
間違った科学を使う人間を、僕は、許さない――。

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