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 その夜、8歳の大介は子ども部屋に閉じこもっていた。
ベッドの上で膝を抱えて声を出さずに泣いていると、ドアの外で優しい声がする。
「大ちゃん、おばあちゃんだよ。開けてちょうだい」
手の甲で涙を拭い、黙ったままドアを開けると、祖母は滑るように部屋に入って
来て、後ろ手にドアを閉める。
「ああ、大ちゃん、やっぱり泣いていたのかい? ほら、もう泣かないで」
祖母は大事そうに大介を抱きしめ、頭を撫で、頬をさすって微笑んだ。
「さ、これを召し上がれ」
祖母は割烹着の両ポケットから大きなおにぎりを取り出し、大介の手に
持たせる。
「お腹が減っただろう? 二つくらい食べられるよね?」
ごくりと喉が鳴った。
まず一個、バクバクと音を立てるようにおにぎりを食べる。具の何も入っていな
い塩むすびが、たまらなく美味しかった。
「ゆっくり食べないと、喉につかえるよ」
まるで魔法のように、今度はポケットから小さな水筒が現れ、そのコップにお茶
を注ぐと、祖母は机に置いた。
夢中でおにぎりにかぶり付く大介に目を細めながら、
「ねえ、大ちゃん。今日どうして叱られたか分かっているんでしょう?」と、低くて
綺麗な声で祖母に質問された。

月ライン

 その日の夕方、大介が外遊びから戻ってくると、母は忙しそうに夕食の準備を
していた。
「お帰りなさい、大介。うがいと手洗いをしたら、お台所を手伝ってくれないか
しら?」
「えーっ。嫌だよ。TVだって見たいし、サッカーをして来たから疲れちゃったんだ」
母の願いをにべも無く断ると、大介はソファーに座り込んでTVをつける。
「ねえ、お腹が空いているんだよ。夕食を作るの、急いでよね」
「大介、お母さんのお手伝いもしないで、急がせるなんてダメじゃないか。お父
さんと一緒に手伝いなさい」
その日休暇だった父が、部屋から出てきて台所へ入ると、母の手伝いを始めなが
らそう言った。
面倒くさいなぁ。と内心思いながら、渋々台所へ行って見ると、大介の大嫌いな
ピーマンがまな板の上に乗っている。
「…お母さん。今日のおかずはなぁに?」
少し目立ち始めたお腹をかばうようにして豚肉を揚げながら、母は「酢豚よ」と
言った。
「どうして!? 僕が酢豚は嫌いなのを知ってるじゃない? 他のにしてよ! 酢豚
なんて絶対食べないからね!!」
その途端、父の鉄拳が飛んできて、大介を吹っ飛ばした。
「いい加減にしないか! お前みたいな奴は何も食べなくていい!」
「だって…酸っぱくてピーマンがたくさん入っているんだもん。酢豚なんか好きに
なれないよ!」泣きながら文句を言う大介は
「まだそんな事を言うのかっ!」
と、首筋を父につかまれ、子ども部屋に投げ込まれた。
「反省するまで出てくるな!」
そしてそれから、大介はずっと泣いていたのだ。

 「せっかくのお料理を、食べもせずにあんな風に言われて、きっとお母さんは
悲しかったと思うよ。お腹に赤ちゃんがいると、動くのだって重くて大変なのに、
お母さんは毎日一生懸命ご飯の支度をしてくれている。そうだろう?」
ふたつ目のおにぎりをお腹に収めて、ようやく大介も落ち着いてきた。
「お母さんは意地悪で酢豚を作ったんじゃないよ。お前が好き嫌いなく、なんでも
よく食べて、丈夫で大きくなって欲しいと願っているんだよ」
こくん。と、大介はうなずいた。
「大ちゃんは賢いから、みんなの気持ちが分かるよね?」
祖母はお茶を差し出し、にっこりと微笑んだ。

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 祖母はいつでも大介の味方だった。叱られた事は無いが、諭して注意をしてく
れ、なによりいつも誉めてくれた。弟の次郎が生まれてからは特に、母が次郎の
世話に明け暮れる分、祖母は大介を慈しんでくれた。

 そんな大好きな祖母が歩けなくなったのは、ほんの些細なことだった。高いと
ころの洗濯物を取り込もうとして背伸びをしたらバランスが崩れ、しりもちをつ
いた時に、頚椎を骨折し、背骨も傷めてしまったのだ。
待ち望んでいた祖母の退院の日、母が夜間用にと、オムツを買ってきたのを見
て、大介は愕然とした。祖母はベッドの上で大介を呼ぶと手を握って、
「大ちゃん、おばあちゃんはもうひとりでお手洗いに行けないんだよ。みんなに
迷惑をかけてごめんね。このお部屋にはポータブルトイレも置くし、オムツも替
えてもらうと臭くなっちゃうから、おばあちゃんのお部屋にはもう来なくていいよ」
と寂しそうに言い、「情けないねぇ」と呟いた。
「おばあちゃん!」
我慢しようと思ったのに、それはまったく無駄だった。涙がどんどん出てきて、
祖母の顔が見えないくらい視界がゆがんだ。
「おばあちゃん、情けなくなんかないよ。オムツだって、次郎ので慣れているから
僕は平気だよ。」
祖母の手を強く握り締め、ベッドに覆いかぶさるように大介は全身で泣いた。
「おばあちゃんは僕や次郎のお世話をしてくれたから、今度はみんなでおばあち
ゃんのお世話をする順番なんだよ。おばあちゃんは汚くないし、臭くないよ!
この部屋に来るななんて言わないで!!」
「まあ…大ちゃん、ありがとうねぇ」
祖母はいつものように優しく大介の頭を撫でた。

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 夕方、買い物に行く時には、母が祖母の乗った車椅子を押し、大介は次郎の乗
ったベビーカーを押して付いてゆく。
「あら、お義母さん、今日は生の筍が売っていますよ。若竹煮にしましょうか」
母が祖母に笑いかける。
「穂先をお澄まし汁にして、筍ご飯も作ったら、筍尽くしだわねぇ」と、祖母も
嬉しそうに笑う。
帰り道、知人の庭で山椒の若芽を分けてもらい、一輪挿しにつつじを手折り、帰
宅すると、その夕食が整うまで、大介は祖母の部屋で次郎の子守をする。
 母も祖母も季節感を大切にする人だった。
食卓にはその時節ごとの食器を選び、花を活け変え、春には梅一輪、夏には笹、
秋には紅葉、冬には南天といった植物が献立にあしらわれた。
いつも祖母は「ありがたいねぇ」と黙祷してから食事をしていた。
さらに年をとり、寝たきりになり、記憶障害が出て、大介の事も次郎の事も分か
らなくなってさえ、大介と母は祖母に季節を届けることを止めなかった。

月ライン

 「なあ、古代」
懐かしそうに話し終えると、島は熱い紅茶を煎れてきて古代の前に置き、
「俺のおばあちゃんは惨めだったと思うか?」と聞いた。
相変わらず古代は何も言わない。ずっと考え込んだままだ。
「今でも俺は、あの時のおにぎりが最高に美味かったと思っているし、もう一度
食べたいと思うよ。寝たきりになって、俺の事がわからなくても、ずっとずっと
生きていて欲しかった…死んだ時には本当に悲しかったのさ――」
そう言い残して、島は席を立った。
煎れ替えてくれた紅茶の湯気が、頼りなげに立ち上っていた。

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