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月ライン

 自分がどうしていいのか、全く分からないまま、古代はふらふらと医務室を出
た。第一艦橋には行きたくない。食堂で熱い紅茶でも飲もうかと向かって行く
途中、向こうから島がやって来た。
「おう! 古代!! お前どうしたんだよ、その左頬。ユキの手形がはっきり
ついているぞ」
くっくっく。と可笑しそうに笑って古代をからかった島だったが、返事もせず、
目も合わせずに古代は通り過ぎようとする。
「待てよ。そんなに強く叩かれたからには、よっぽどの事をしたんだろう? ス
カートめくったくらいじゃないよな?」
島は、古代の腕をつかんで、「わけを聞かせろよ」と引き戻した。
それでも黙ったまま、古代は食堂へ入り、人気の無い隅の席を選ぶと、自分で
ティーバックの熱い紅茶を用意して座った。
「なんだ。無視するのか? 余計に気になるじゃないか」
ほら、これで冷やせよ。と、島は氷水でハンカチを冷やして古代に渡す。
たちまち冷めてゆく熱い紅茶に、古代は口もつけずにぼんやりとしたまま、
痛みの残る左頬に島のハンカチを押し当てている。
「で? ユキはどうして怒ったんだ?」
なかなか話し出さない古代に業を煮やし、それを放っておけない自分にも嫌気が
差して、島はつい厳しい口調で古代に聞きとがめた。
「…沖田艦長が…もうひとりでは歩けないんだ…。だから、排泄介助が必要だって
佐渡先生に聞かされた…」
はっと目を上げて古代を見た後、島は静かに
「そうか…とうとう介助が必要なのか…」と言った。
「真田さんがナースコールの設置と、ポータブルトイレの作成をすることになった。
でも…夜間は…介助する人手が足りないから…」
紅茶のカップに添えた手が小刻みに震えている。
「オムツの使用を提案されたんだろう?」と島の方からそう言われた。
「艦長にオムツを使用するなんて、 そんなみじめな扱いは嫌だって言ったんだ。
俺だったら死んだほうがましだって…」
ははぁ。なるほどね。それでユキに殴られたんだな。島にはその光景が目に浮か
ぶようだった。
「古代。俺もその場に居たら、ユキより先にお前を殴っていたよ。グーで思いっ
きりボコボコにしていただろうな。真田さんだって殴りたかったと思うぞ」
島は呆れたという顔をして、ため息混じりに古代を見る。
「真田さんは、手足を失った時、絶望で死にたかったと俺に言った…」
「あぁ!? 古代! お前って本当にガキだよ。真田さんにそこまで言われないと
わからないのか? お前は艦長にオムツを使用するって事がショックだったん
だろうけど、少なくとも俺と真田さんは、遠くない未来にそういう日が来るに違い
ないと覚悟はしていたよ。思ったより随分早かったがな…」
どうして? 古代の目はそう言っている。
島はコーヒーを運んできてゆっくりとひと口飲んだ。
「真田さんには歩けない過去があった。絶望から這い上がってきたから今の艦長
の心境も状態もきっとよくわかっているんだろう」
さらに二口目を飲みながら、
「俺にはおばあちゃんが居たんだよ。もうとっくに死んでしまったが、歳とともに
足腰が弱くなって、最期にはオムツを使用していた。艦長の足の状態を見れば、
簡単に想像がついたのさ」と言った。
「古代。年老いて、衰弱して行くのは、悲しいが特別なことじゃない。惨めか、そ
うでないかは介護する人間の対応にかかっているんだと俺は思う」
そして島は、自分の祖母の思い出話を始めた。

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